量り売りを始めたきっかけについて聞かれる事がありますが、買い物をするとゴミがたくさん出る事に悩まされた事がその一つです。
そのゴミの多さに気付いたきっかけは山梨に引っ越して直面したゴミの問題でした。
1997年に大阪から山梨の八ヶ岳に越して来たのですが、その頃はゴミの回収が少なかったのです。
私の住んでいた大阪の池田市では確か可燃ゴミが週2回、不燃ゴミが週1回、粗大ゴミが月に1回ありました。
ところが、越して来た時には可燃ゴミが月に2回、不燃ゴミが月に1回、粗大ゴミは年に1回しかありませんでした。
しかも、家の前をゴミ回収車がまわってくれるのが当たり前だったのがゴミを公民館まで持って行かなければならない事にも驚きました。まあ家が少ないので当たり前なのですがゴミを出す事に不自由を感じた事のない生活を送っていたので最初は戸惑いました。
さらに、公民館のゴミステーションにゴミを出せるのはその地域の区に所属していなければならず、誰でも出せる訳ではなかったのです。集落からはなれた所に住み始めたのでその地域の区には入る事が出来ず、結局そのゴミステーションにゴミを出せない事が分かりました。たちまちゴミ出し難民と化してしまったのです。
なんとか役場の紹介で他の自治会で仮にゴミ出しを許可してもらったのですが、その自治会にも2〜3ヶ月のうちには自分で自治会を作るなりの対応をしてほしいと言われました。
そこで、越して来て間もないにもかかわらずゴミの自治会づくりを始めたのです。10軒で一つの自治会になるのですが、増やしていく事を前提に特例で4軒からスタートさせてもらいました。なんとか自治会を作ることができ、自分でゴミステーションを作成してようやくゴミ出し難民から開放されたのです。
ゴミが出せない頃、買い物をする度にゴミが増えることでとてもストレスを感じる期間でもありました。結局この事が、ゴミと向き合う最初のきっかけになったのでした。
月に2回の可燃ゴミの収集日で他の家庭では困っていないのだろうか?そんな疑問がわいてきました。関心を持ってみて見ると都会と違って土地が広い事もあり、生ゴミはコンポストを利用する人がほとんど。しかしその他の燃えるゴミは多くの家では燃やされていました。庭に簡易の焼却炉などがありそこで容器や包装紙、紙のゴミが燃やされていました。ゴミを燃やす独特の鼻をつく匂いがよくしていたものです。庭だけではなく畑にゴミを持って来て燃している姿もよく見かけ燃えカスが畑でくすぶっている様子に何時もやりきれない思いをしていました。乾電池の燃えカスを畑で見たこともありました。ゴミが畑の土や空気や水を汚染していくのをイメージせざるを得ませんでした。その後、簡易焼却炉出のゴミ焼きやゴミの野焼きは条例で禁止されました。同時に、ゴミの回収の回数も増え今では可燃ゴミは週2回、不燃ゴミは週1回になっています。
今はなるべくゴミの出ない生活をしているので、こんなに回収日がなくても良いのになんて思うぐらいです。今から考えるとゴミ出しの問題と直面した期間があったからこそ本気で量り売りを考える事が出来たのかも知れません。